四国ドリームビズ 事務局員!?
行ったとこアナリスト 加林です。
これまた話題ついでに。
親日国
なんて、決まっているわけじゃありません。
当たり前ですが・・・
日本人でも好きな国、嫌いな国がそれぞれ違う様に、どこでもいろいろなようですね。
さて、今回はポーランド。
1919年、ポーランドは独立をはたします。
長い長い分割統治時代を経てのことでした。
時は第一次世界大戦が終わって間もない頃です。
独立前、ロシアのシベリアはポーランド独立主義者の流刑地。
ようやく独立を果たし、帰国できると思っていた矢先、1920年にソヴィエト連邦に対する干渉戦争の一環としてポーランドがソヴィエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が始まってしまいます。
そして、シベリア鉄道を使っての帰国の夢が絶たれまいました。
ソヴィエト内での迫害の危機に、ウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立され、せめて子供達だけでも祖国へと欧米諸国に助けを求めますが拒否されてしまいます。
委員会は、1919年に国交を結んだばかりの日本に助けを求め、日本政府も人道的見地から支援を始めます。
外務省は日本赤十字に働きかけ、シベリアに出兵中だった日本帝国陸軍の支援も受けながら、765人の救出に成功。
腸チフスに罹った子供を必死に看病していた日本の若い看護師が感染し亡くなるという悲劇もありましたが、日本の手厚い対応にポーランドの子供達は感動し、そして無事に祖国の地を踏みます。
1995年、兵藤長雄ポーランド大使が8名の孤児を公邸に招待した際の、ある老婦人のコメント
私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。
そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。
もうそれは叶えられません。
しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと思いました。
何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。
今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。
1999年、ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団が来日した際に託した、当時の子供からのメッセージ(ヘンリク・サドスキさん)
20世紀の始め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。
極東委員会副会長になったヤクブケヴィッチ氏のコメント(時期不明)
日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。
日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかも、わが不運なるポーランドの孤児にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。
われわれの孤児たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。
こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。
ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの孤児のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。
ポーランドへ帰国する子供達。
神戸港では、孤児一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。
と、伝えられます。
そして横浜港では、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったと言われます。
子供たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、 幼い感謝の気持ちを表した。
と。